諸葛亮(しょかつりょう)

 蜀漢の学者であり詩人であり政治家。

 初め市井にあったが、劉備により見出されて政治の場へ登場した。

 すでに曹操の勢力が大きく、一勢力では対抗できないと考えた諸葛亮は、劉備に天下三分の計を説いて蜀の建国にあたった。

 劉備に後事を託された後も、後主劉禅を補佐し、度重なる北伐を続けるとともに、南方への版図拡大を図った。しかし、人材難からほとんどの決裁を自ら行うことでの心身ともに疲弊し、五丈原にて病没した。

 彼の軍略的な才については疑問があり、市井の学者がその知識だけで乱世を乗りきろうとして失敗したケースではないか、という評価にしておきます。

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諸葛誕(しょかつたん)

 諸葛氏の中で魏につかえたもの。

 正始政変を代表とする一連の曹氏(とその血族に迎えられた新興勢力)対司馬氏(を代表とする名士名族階級)の抗争の中で、早くから曹爽派の中で名前が出ているものの、実際には司馬懿派として行動を共にしている。これは、司馬氏の専横と曹爽の行動を天秤にかけた上で、このまま曹爽に実権を握らせることが、曹氏政権の早期崩壊につながるとの考えだったものと思われる。

 結果的に、彼もまた司馬氏らに対抗するため乱を起こす。苦渋の選択をし続けた者の最後の選択であった。

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簫銑(しょうせん)

 隋末唐初の諸群雄の一。後梁宣帝簫詧の曾孫。

 煬帝の即位後、外戚であることから羅県令となった。

 董景珍らが乱を起こすと、これに合流して首領に推戴され梁公と称し、のちに梁朝を再興して皇帝を称した。

 隋の旧将や近隣の群盗が降るようになると、その勢力は増し、東西は九江から三峡まで、南北は交阯から漢水に及ぶようになった。しかし董景珍の弟が叛乱を企てたことを理由に誅殺されると、やがて董景珍や張繍といった挙兵当初からの将が次々と誅殺され、さらに叛旗をひるがえすものが多くなった。

 唐軍が攻めた際、援軍がすでに唐軍に滅ぼされたの知ると、簫銑は降伏し斬られた。

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沈法興(しんほうこう)

 隋末唐初の諸群雄の一。陳の特進・広州刺史沈恪の子。

 初め、隋の呉興郡太守となっていたが、宇文化及が煬帝を弑すると、宇文化及誅滅を掲げて挙兵した。

 やがて江表を押さえると、江南道総管と称した。のちに越王が即位すると、形上は臣従するそぶりを見せたが、大司馬・録尚書事・天門公と自称したり、百官を任命したり、恣に刑罰を設けるなどで人心が離れていった。

 やがて李子通が陳稜を攻めると、陳稜は沈法興に援軍を要請した。沈法興は息子の沈綸に数万の兵を率い救援させたが、李子通は沈綸軍を大敗させ、さらに攻めてくると、蒋元超にこれを防がせたが敗れ、入水した。

 この時代、数多くの群雄が現れ国を興したが、政道が乱れていたのは数少ない。これは、父がかつて陳の高官であったことから来る特別意識であろうか。

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史思明(ししめい)

 安禄山に従い乱を起こす。

 安禄山が子の安慶緒に殺されると、安慶緒を殺して安禄山の軍を継いで大燕皇帝と称した。安禄山の死後、官軍に取り返された洛陽を再び攻めて取り戻した。やがてその勢力は河北から山東に至ったが、史思明もまた子の史朝義によって殺され、のちに李懐仙によって史朝義が殺されるにいたり、所謂安史の乱は平定された。

 しかし、安史の乱後、河北には田承嗣・李懐仙ら安史を継ぐものが節度使として勢力を伸ばし、互いに姻戚関係を結ぶことで大軍閥を形成していった。

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