魏咎(ぎきゅう)

 秦末の諸群雄の一。もとの魏の寧陵君。魏王咎とも言う。

 魏の時に寧陵に封ぜられていたが、秦により滅亡すると、庶人となった。やがて陳勝が陳県で王となると、これを頼って陳へ行った。陳勝配下の周市が魏の地を平定すると、魏の人は周市を王に立てようとしたが、周市は魏の王室の子孫でもとの寧陵君の魏咎を魏王に立てようとした。しかし、陳勝は魏咎が魏へ赴くことを拒み、長く陳県に留め置いた。やがて、各地に旧国が復興すると、陳勝も折れ、魏咎を魏王として国へ帰らせた。魏都臨済についた魏咎は周市を相とした。

 陳勝が滅ぶと、秦の章邯軍は臨済を攻めた。周市に命じて斉と楚に援軍を要請した。斉は田邑を、楚は項它を派遣して救援したが、章邯軍の包囲はとけなかった。斉王田儋が自ら臨済の救援に来ると、章邯軍はこれを攻め、田儋は戦死した。これを見て魏咎は自殺し、臨済は秦に降った。

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姫旦(きたん)

 周公。周公旦ともいう。周の武王(姫発)の弟。

 武王が即位すると、これを補佐して政務を執った。

 商(殷)王を討伐すると旦は曲阜に封ぜられたが、任地には赴かずに武王の補佐を続けた。二年後、武王が病に倒れると、旦は三王(古公亶父、公季、文王)の祭壇を築き、我が身をもって武王の身代わりとならんとして祈祷した。

 成王が即位したが幼年であったため、これに代わって祭祀を行い、政務を執っていたが、管叔らが流言を放つと、太公望や召公奭に弁明して補佐を続けた。やがて、管叔らが乱を起こすと、成王の命を奉じてこれを討伐した。

 成王即位の七年後、成王が政治を執ることが出来るようになると、旦は政治を成王に返し、自ら臣下の列に加わった。

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姫重耳(きちょうじ)

 晋の文公。単に重耳と呼ばれる。晋の献公(姫詭諸)の子。

 驪姫が奚斉を生むと、いずれは太子申生を廃して奚斉を太子にと考えた献公により、遠ざけられ蒲に居留した。やがて申生が献公を殺そうとした疑いをかけられ自殺すると、蒲に籠城した。献公が宦官の刺客を使わすと、狄へ逃れた。

 献公が亡くなると、里克は奚斉と卓子を殺した後、重耳を迎える使者を送ってきたが、重耳は殺されることを恐れ、晋には戻らなかった。そこで里克は同じく献公の子の姫夷吾(恵公)を迎えて即位させた。恵公もまた重耳を恐れて暗殺しようとすると、重耳は狄を離れて放浪することとなった。

 行く先々で厚遇されたり、かえって冷遇されたりであった。やがて恵公が亡くなると懐公が即位したが、大夫たちは重耳を探し出し、晋へ迎え入れ即位させた。晋君として即位すると、厚遇された国とは約を守り、また盟約と取り交わすとともに、冷遇した国に対しては兵を挙げて恨みに応えた。

 のち、周の襄王より伯に任ぜられ、春秋五覇に数えられる。

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姫夷吾(きいご)

 晋の恵公。単に夷吾と呼ばれる。晋の献公(姫詭諸)の子。

 驪姫が奚斉を生むと、いずれは太子申生を廃して奚斉を太子にと考えた献公により、遠ざけられ屈に居留した。やがて申生が献公を殺そうとした疑いをかけられ自殺すると、屈に籠城した。献公は屈を攻めさせたが落すことができなかった。さらに賈華らに屈を攻めさせると、夷吾は梁へと逃れた。

 献公が亡くなると、里克は奚斉と卓子を殺した後、献公の子の夷吾を迎えさせた。夷吾は秦の繆公に河西の地を割譲することを約束し、秦の兵とともに晋に帰還した。

 即位した夷吾(恵公)は兵を借りた秦に対して約を違え、封土を約束していた里克にも土地を与えることはなかった。そして、里克が重耳に付くことを恐れ、君を殺したことを理由に里克を自殺させた。

 晋の地が凶作になると、恵公は秦に援助を求めた。そこで繆公は晋に穀物を送った。翌年、今度は秦が不作になると、繆公は晋に援助を求めた。しかし、恵公はこれに付け入り兵を起こした。これを知った繆公は晋を攻め恵公を捕らえた。初めは殺そうとしていたが、のちに帰国させた。

 重耳が狄にいることを知った恵公は、これを暗殺しようとしたが、重耳が斉へ逃れたため果たせなかった。

 やがて病が篤くなると、人質として秦にいた公子圉は他の公子が擁立されることを恐れて抜け出し、晋へ戻った。恵公が亡くなると、圉が即位した。これが懐公である。

 恩義に酬いて覇者となった重耳と、約を違えて虜囚となった夷吾。どちらも大国晋の国君として覇を目指したが、とった道は違うものであった。政は行き着くところ人心である。信用のおけない人物に誰が従おうとするであろうか。

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