賈詡(かく)

 魏の太尉。

 董卓に仕えていたが、呂布に殺害されると李傕 に進言して呂布を追い払った。その後張繍に招かれて参謀役となりこれを助け、一度は曹操軍に加わった後も、曹操軍に反して張繍軍の参謀として活躍した。

 官渡の戦いの前に再び張繍とともに曹操に降り、重用された。張繍軍にあっては張繍の価値を高めるための駆け引きがなされており、それが曹操の興味を惹いたものと思われる。

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夏侯覇(かこうは)

 魏の右将軍。征西将軍夏侯淵の子。

 黄初年間に偏将軍となり、曹真が蜀征伐を行うと、これの先鋒となって奮戦した。

 正始年間には討蜀護軍となり、征西将軍夏侯玄の配下となったが、曹爽が誅殺され夏侯玄が召し出されると、その禍が自らにも及ぶことを恐れ、単身にて蜀へ亡命した。

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毌丘倹(かんきゅうけん)

 魏の鎮東将軍。

 黄初年間に即位前の明帝(平原王)の文学となり、明帝即位後は親待され、刺史や将軍職を歴任した。

 幽州刺史のころ、公孫淵が呉と盟を結ぶと、その問責の使者として軍を率いて遼東へ赴いたが、逆に攻められて分が悪くなり引き上げた。

 明帝が崩御し曹芳が継ぐと、その補佐である曹爽と司馬懿との対立が激しくなり、ついに正始政変が起こった。曹爽派として捕らえられたのは、多くは平原王の文学時代からの親交があったものであった。のち、誅される前にと、揚州刺史文欽とともに乱を起こし、司馬師に征伐された。

 武官であり、将軍位を昇っているものの、残っている代表的な戦いはいつも敗戦である。あるいは、明帝の寵だけで昇位したものか。

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簡雍(かんよう)

 蜀の昭徳将軍。

 涿郡の出身で、劉備とも知り合いであったため、これに従って随行した。武闘派の多い劉備陣営にあって主に外交面を司り、同盟や降伏勧告などの使者として各地へ赴いた。

 やがて、劉備陣営に人が集まってくると、名誉称号として昭徳将軍に任命され、主に劉備の話し相手として仕えた。

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賈南風(かなんぷう)

 晋の恵帝の皇后。賈充の娘。

 武帝司馬炎は初め衛瓘の娘を太子司馬衷の妃にしようとしたが、武元楊皇后楊豔に説得され、賈充の娘を妃とした。時に賈南風十五歳、司馬衷十三歳。

 衛瓘は賈南風を妬むと、司馬衷が暗愚であることを説いた。司馬炎は今抱えている問題点を司馬衷に裁決させた。その意図を悟った賈南風は、密かに回答案を作らせ、司馬衷に自書させた。司馬炎はその回答に満足して廃嫡しなかった。

 司馬炎が崩御すると司馬衷が即位し、賈南風は皇后となった。皇太后となった武悼楊皇后楊芷(司馬衷の母である武元楊皇后楊豔の従妹)を廃し、その父太傅楊駿や汝南王司馬亮、太保衛瓘、楚王司馬瑋らを殺させるなど、反対勢力に対する攻撃は激しかったが、政においては張華、裴頠らを重用し、平穏であった。

 しかし、その後兵を起こした趙王司馬倫によって殺された。いわゆる、八王の乱の始まりである。

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介之推(かいしすい)

 諸国を放浪していたころの重耳の随臣で七人衆の一人。介子推とも。

 重耳の放浪に従っていたが、あるとき庫蔵官の頭須が一行からはぐれたため、窮乏したことがあった。介之推は空腹に耐えながらも、食欲がないとして自分の分も重耳に食べさせていたことがあった。

 秦の力添えにより重耳が帰国する際、荷物係をしていた壷叔は、これまでの放浪中に使用していた食器などを運ぶため船に積み込んでいた。それを見た重耳は「不快なことを思い出す」として捨てるよう命じた。これまで放浪中にしばしば重耳を諫めてきた随臣の狐偃(子犯)は、その重耳の態度から、自らもまた「不快なことを思い出す」存在ではないか、あるいはこれまでとってきた対応を恨みに思っているのではないか、だとすれば古道具のように捨てられる(殺される)のではと思い隠棲を申し出た。重耳はこれを聞くと、「舅氏(狐偃のこと、重耳の生母狐姫とは兄弟となる)と趙衰にはいつまでもそばにいてもらわなくては困る。もし舅氏と心違えることあれば照覧し罰したまえ」と告げて河伯に誓った。たまたま重耳に用事があり、近くにいた介之推はこれを聞くと、重耳がそばにいてほしいのはただ狐偃と趙衰のみ、ととらえてそのまま用を告げずに立ち去り、一歩身を引くようになった。

 重耳ら一行が晋に戻ると、介之推は病気を理由に参内しなくなった。そして老母を養うため、わらじを編んでいた。やがて、呂省らを討つと論功行賞が行われた。放浪期の七人衆に封邑を与えたが、その中でただ介之推だけが何も与えられなかった。姿を長く見せなかったため、重耳が介之推のことを忘れていたのである。介之推は、公子(重耳)が即位するのは天命なのに、自らの功と思い褒賞を得ている、と批判した。介之推の母は褒賞をもらうように勧めたが、介之推の意の強いことを知るともう言わなくなった。介之推が重耳に随行していた頃にその老母の面倒を見ていた友人の張解は、介之推が論功行賞から漏れたことを知ると憤慨し、そのことを城門の壁に記そうとした。介之推はこれを3日待たせると、翌日には母とともに身を隠した。それを知った張解は城門の壁に詩を掲げた。

 その知らせを聞いた狐偃や趙衰は、介之推の事に気付いていたが病気から復帰してから進言しようとしていた事もあり、困惑していた。取り急ぎ重耳に知らせると、重耳は介之推を探させた。やがて緜上の山中に入ったことを知ると、緜上の周りを囲み介之推をその地に封じ、山を介山と名付けた。

 一説に言う、緜上の山中に入った介之推を出てこさせるため、山に火をつけたと。出てこれる道を残し、そこで重耳は待っていたが結局現われず、のち山中で介之推と老母の焼死体を見つかったと。

 人の想いのすれ違いとは、かくも残酷なものであろうか。はじめ重耳が狐偃と趙衰の名をあげたのは、狐偃が重耳の生母狐姫の兄弟であり、趙衰とは咎如の姉妹のうち姉を重耳が、妹を趙衰が娶るという姻戚関係にあったからで、無論他は不要という意味ではなかった。また、張解の行動も友人のことを思ってのことであったが、結果的に友人を死に追いやることとなった。哀しいことである。

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蒯越(かいえつ)

 東漢末の策士。

 はじめ何進に招かれたが、やがて見切りをつけ地方へと去った。

 のちに兄の蒯良とともに劉表の荊州入りを助けて劉表の幕僚に入り、豪族勢力を集めて荊州の実権を握った。

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