武臣(ぶしん)

 秦末の諸群雄の一。

 はじめ陳勝に仕えていた。陳勝よりもとの趙の地の攻略を命じられた武臣は、その配下の張耳・陳餘とともに赴いた。もとの趙の都邯鄲に入城すると、張耳・陳餘の勧めにより王位に就き、国号を趙とした。

 陳勝は一旦は武臣の家族を誅しようとしたが、諫言に従い武臣の王位を認めた上で、秦への派兵を求めた。武臣はこれを拒否すると、自らの勢力拡大のために燕の地へ韓廣を、常山に李良を、上党に張黶をそれぞれ派遣して攻略させた。 

 しかし韓廣が燕の地で自立すると、韓廣を攻めたが捕らえられた。その後一旦は釈放されたものの、秦の謀略により武臣を疑った李良によって殺された。

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武曌(ぶしょう)

 唐の高宗の皇后。一時帝位につき、周の則天皇帝と称す。則天武后。

 初め唐の太宗李世民の後宮にあり才人となっており、太宗崩御後は一時沙門に入ったが、高宗李治に召し出され、二代続けて後宮に入って昭儀となり、のち皇后となった。

 高宗は劉氏との子の李忠を皇太子としていたが、武氏を皇后に迎えた後、武氏との子の李弘を皇太子とした。やがて政治の実権は武氏に移ると、李弘はそのふるまいを諫めるようになったため、これを毒殺して李賢を太子とした。しかし、この李賢も罪を着せて廃し、李哲を皇太子とした。

 高宗崩御後、中宗李哲が即位すると太后として執政した。しかしすぐに廃して睿宗李旦を即位させた。武氏の専横に対し、李勣の子李敬業が兵を起こしたが、武后の配下の将に敗れた。また、越王李貞も兵を挙げたが敗北し自殺した。ここに及び、武后は王位に就いていた唐室のものを殺させた。

 やがて睿宗も廃し、自らの名を曌とし、皇帝と称して国号を周と改め、睿宗を自らの皇嗣として武姓に改めさせた。のちに、狄仁傑の勧めに従い、李哲を皇太子とし、李旦を相王とした。

 帝位に就いた当初は人心が心服していないことを恐れて酷吏を登用し、密告の道を開いて反逆の汚名を着せて粛正していたが、やがて狄仁傑らを信任し、その推を受けたものを重用し、その諫言を聞き入れるようになり、人心が安定した。

 病が重くなると、張柬之らに迫られて退位し、実子の中宗が復位した。

 中宗の皇后、韋后が中宗を弑したことと併せて武韋の禍とも称されるが、その政治力や背景には大きく隔たりがある。あくまで皇統のみを捉えれば禍であったかもしれないが、唐王朝が長命王朝となった要因の一つには、武曌による政治改革と人材登用があると言える。

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