張角(ちょうかく)

 東漢、太平道の教祖。所謂、黄巾軍の首領。

 経歴ははっきりしないものの、第一次党錮の禍にまきこまれて官を失い下野しというあたりまでは通説らしい。下野したあとは純粋な宗教活動を行っていたが、大量に増えた信者(主に流氓と盗賊)の押さえが利かなくなり、またもともと清流派として宦官に対する反発(というよりは政を正すという意味で)により乱に踏み切った。

 しかし、衆を掌握できる能力を超えた大軍勢となった黄巾軍は、そこに属する者の生存欲が前面に押し出され、官軍に大敗後無念の病死した。

  

 ※本来の「流氓」は鴉片戦争後の上海における無頼の徒に対する呼称であるが、民国期に「組織化された無頼民衆集団」として一般化されたこともあり、ここでは便宜上時代を遡って用いています。 

戻る


張繍(ちょうしゅう)

 魏の破羌将軍。驃騎将軍張済のおい。

 祖獅フ県吏であったころに、県長の劉雋が麹勝に襲撃されて殺されると、麹勝を誅殺して知られるようになった。又、韓遂・辺章らの率いる涼州勢を撃退したことにより、董卓に仕えるようになった。

 董卓が呂布に倒されると、李[イ寉]らとともに呂布を攻撃した。張済に従って軍功を挙げ、張済が死ぬとその軍勢を継いで宛に駐屯した。やがて曹操が南征してくるとこれに降伏したが、曹操が張済の妻を側妾としたため恨みを抱き、これを知った曹操陣営が張繍殺害の計画を立てると、逆に張繍らは曹操を急襲し、曹昂・曹安民・典韋らが戦死した。のちに官渡の戦いを前に再び曹操に降伏し、官渡の戦いの功により破羌将軍となった。

戻る


陳勝(ちんしょう)

 秦末の諸群雄の一。陳勝・呉広の乱の首謀者。

 呉広とともに漁陽の守護隊として徴発されたが、あるとき大沢郷で大雨に遭い、道が不通になってしまい、期日に間に合わなくなった。到着の期日が遅れることは、秦では斬罪となっていた。呉広らと語らい、同じ死罪であれば、乱を起こして死ぬことを決めた。そこで、二世皇帝に殺されたとも言われていた公子扶蘇と秦に敗れて死んだ楚の英雄項燕の名を借りて乱を起こし、やがて王位に就いて張楚と国号を定めた。

 一時は一大勢力を誇ったが、配下の武将が次々と自立して王位に就くと弱体化し、やがて御者の荘賈によって殺された。

 この陳勝・呉広の乱は、中国史上初の農民叛乱とされる。しかし、陳勝が言ったとされる名言「燕雀何ぞ鴻鵠の志を知らんや」、二世皇帝と扶蘇に対する考察、亡き楚の英雄項燕の名を借りて乱を起こしたこと、初めから国(張楚)を立てたこと、など以後の農民叛乱と称されるものとの差が見てとれ、確かに乱を起こす前は傭耕者であったが、学や見識から見てもその出自は相応のものと思われ、この乱を単純に農民叛乱とまとめるのは誤りではないか、と考えています。

戻る


趙衰(ちょうし)

 春秋時代の晋の宰相。

 はじめ、仕える主君を選ぶのに卜により、吉とでた晋の公子重耳に仕えた。重耳が驪姫の禍により翟に亡命すると、趙衰もこれに従った。翟は赤狄の公女姉妹のうち、妹を重耳に、姉を趙衰に娶らせた。この妻が生んだのが趙盾である。

 やがて重耳が帰国して即位すると、趙衰は原の大夫に任命され、国政をまかされた。

 亡命の前、趙衰と本妻との間には3人の子がいた。重耳とともに、晋に帰国すると、趙衰の本妻は翟に残してきた妻子を呼ぶように言った。やがてこの妻子が着くと、趙衰の本妻は趙盾を嫡子として跡継ぎとし、自らが産んだ子はこの趙盾に仕えることを決めた。

戻る